猫のつぶやき(=ΦωΦ=)

この前、空を見上げたのはいつですか?

『平成最後の昭和の日』からの、お軽勘平…そして平成最後の日/20190430

明治大正昭和平成令和 

  

成最後の昭和の日の昨日、「平成最後の昭和の日に大正駅で明治のR-1を飲む」というのが、Twitterでトレンドになっていました。

 

twitter.com

www.huffingtonpost.jp

 

 …で、乗っかってみた訳です。(;^ω^)

aurora-lummox.hatenablog.com

 

 

京都奈良大阪神戸…関西方面に頻繁に出没していた時期もあったけれど、大正駅あたりは訪れたことがなかったかと。大正駅…大阪メトロ長堀鶴見緑地線!?1990年(平成2年)の花博に合わせて開業で、当時は鶴見緑地線だったでしょうか。(京橋~鶴見緑地間の営業)

1990年以降も何度か大阪を訪れているけれど、目的完遂がやっとでどこも観光していなかったかも。久しぶりに関西方面にも足を延ばせたら…大阪市立科学館や技術館も訪れたいニャァ。(=ΦωΦ=) ガンバレ ジブン!!

 

正というと、横浜市にもその名の村がかつて存在しました。

現在の横浜市戸塚区内で、関東地方の方は渋滞情報で耳にすることが多いであろう原宿交差点あたり一帯が、大正4年から昭和14年まで大正村でした。(国道一号線と鎌倉街道の立体化によって、渋滞は随分緩和された…と、たまにしか通らない私は思うのですが、やっぱり混む時は混みますね💦)

大正村は、現在は横浜市戸塚区内のいくつかの町に分かれましたが、原宿交差点のすぐ北側に小学校と中学校、そして消防署などに大正の名が残っています。但し、小学校は大正5年創立なので大正時代と所縁がありますが、中学校は昭和22年創立です。

なお、町名としての大正は残っていませんが、現在もこの地区は「大正地区」と呼ばれているようです。

 

 

 

大正小・中学校の校門の銘板をR-1片手に撮影した人もいらした…かも知れませんね。

 

 

正村は「俣野村、富士見村の合併、長尾村大字小雀の編入により新設」。

俣野と小雀は、紆余曲折がありつつも現在も地名に残っているし、長尾は長尾台が大船駅の近くにありますのでそちら方面だと分かりますが、富士見村は初耳…って、ジモティではないので詳しいことは存じませんけれども。

富士見村 (神奈川県) - Wikipedia

原宿交差点から東の大坂上(おおさかうえ)付近からは、天気が良ければ富士山が望めますので、富士見村の名はここからでしょうか。

(富士山見物スポットは、しばらくご無沙汰していると景観がガラリと変わって富士山が見えなくなったりもしますね。随分前に大坂上と大正地区付近で富士山を撮影した筈…画像を探してみましたが、すぐには出て来なかったです。(-_-;))

 

『仮名手本忠臣蔵』のお軽・勘平の有名な道行の場面で描かれているのも、この大坂上付近になります。元々はこの場面は入っておらず、お軽勘平の二人をクローズアップして作られた清元『道行旅路の花聟』(はなむこ)が人気になり、現在、歌舞伎でもこの場面を加えて上演されるのが一般的になっているとのこと。(独立してこのシーンのみ舞踊で上演もある)元はサイドストーリーだったのですね。

 

時は春。急坂の山の上(今もそこそこ急な坂には違いありませんが、明治になるまでは東海道では箱根に次ぐ難所と言われていたというからビックリ!)からは富士山が見え、桜と菜の花が満開の中、美男美女が手に手を取って都落ちという情景です。

浄瑠璃の歌い出しから『落人』(おちうど)とも呼ばれるそうですが、背景に描かれる雄大な富士山も印象的なのです。

 

この場の筋書きは、主君が刃傷沙汰を起こしてお家の一大事という時、早野勘平は腰元のお軽と逢瀬を楽しんでいたために面目が立たず、ひとまずお軽の郷里である山城国山崎へと二人落ち延びようと、鎌倉から出奔します。戸塚山中で勘平が「死んでお詫びを…」と切腹しようとしますが、お軽が勘平に思いとどまるように説得するシーンも見どころ・聴きどころ。そして、追っ手としてやって来た鷺坂伴内(さぎさかばんない)は押っ取り刀を物語る襦袢にたすき掛けといういで立ちで、主君を切られて勘平を成敗にやって来たかと思えば、実は彼はお軽にご執心で、彼女を奪還に!それなのに、手下4人と共に勘平に返り討ちに遭っちゃうという…

 

鮮やかな色彩と景色の美しさ、男女の機微、山城国へと落ちてゆく二人の道行の様式美と華やかさ、勘平と伴内との闘いが軽妙な台詞のやり取りと舞いとして表現されていたり、伴内の道化としての舞台演出の面白味も加わって、ホロリとしたり笑ったり人気の高い場面・演目だそうです。歌舞伎を舞台やTVで拝見したことがありますが、見惚れました!

 

道行旅路の花聟 - Wikipedia

歌舞伎事典:道行舞踊|文化デジタルライブラリー 二人の出で立ち、舞台背景など

動画は「道行旅路の花聟 動画」で検索するとあれこれ見つかりますが、TV録画をアップしている物が多く、著作権的に問題があるのでご紹介は控えます。

 

夜の闇に紛れて鎌倉を後にした二人だったのですが、この華やかな春の風景は…はて、夜が明けたのか、月が大きかったのでしょうか?清元協会の解説では「夜明け前の墨絵のような夜富士に二人見入る」となっています。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りは雪が降る元禄15年の旧暦12月14日(1703年1月30日)ですが、刃傷沙汰は元禄14年3月14日(1701年4月21日)で、晴れていれば小望月の明るい月が一晩中照らす訳です。けれども、道行の二人は戸塚山中で雨合羽を脱ぐことから、雨上がりだったと推測されます。

特集4 落人

 

浜市戸塚区内には『お軽・勘平戸塚山中道行の場碑』があり、何度か見たことがあるのでこの場面を思い描いたり…でも、このお話はフィクションです。

この碑は交通量が多い国道一号線に接するマンション敷地内にちんまり建っていて、夏には木々が茂って碑が見えづらくなることもあり、知らなければ通り過ぎてしまいそうになりますが、この場所からは、今も天候に恵まれれば富士山を眺めることができます。(少なくとも2年前までは見えましたが、今は?)

…とは言え、フィクションなのに碑まで存在すること自体が、もしかしたら珍しいのでしょうか?

 

◆過去と未来を繋ぐ道-道に人あり、歴史あり-

平成神奈川道中記 戸塚宿から藤沢宿まで 歴史(画像など)

 

 

軽勘平のこの場面で、不思議に思っていることがあります。

二人は鎌倉から京都を目指して鎌倉街道から東海道へ入った訳ですが、現在の鎌倉街道東海道が交差するのは、原宿交差点になります。

けれども、お軽・勘平戸塚山中道行の場の碑は、原宿交差点よりも1km近く江戸寄りにあるのです。二人は江戸方面へ一度戻ったのか?伴内が迷わず追い付いているので、それはないでしょう。また、物語の舞台自体が江戸ではなく、鎌倉になっている訳で…。

 

街道も、現在と江戸時代とではルートも随分違うでしょう。

また、往時の面影を遺しているとされる鎌倉市内の化粧坂(けわいざか)などを思い出してみれば、街道とは言えクネクネとしている上に道幅は数mしかなく(馬が2頭やっとすれ違えるほどしかないという説明のサイトも)で、急な山道も荒く岩を削っただけで非常に険しいのです。現代ならばあっという間に走行しやすいように改修されてしまうでしょう。

 

ここまで書いて、鎌倉街道にはいくつかのルートがあることを思い出しました。

けれども、詳しいことは分からず、以下のサイトを参考にさせて頂きました。

 

ユーミーの旅と旅行と

こちらに「歩く鎌倉街道」シリーズがあり、鎌倉街道には上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)の主要道があり、以下のPDFに地図でルートが示されています。

http://home.e01.itscom.net/you99/kamakuramiti2.pdf

 

神奈川県内の道路標識で『かまくらみち』と書かれているのを各地で見かけて、あそことここがどうやったら1本に繋がるのか分からない…というところから、鎌倉街道にはいくつかルートがあるということに昔気づいたものの、地図に表した分かりやすい解説は見つけられず、そのままになっていました。(ネットもなくて…探し方が甘かった)

 

旧鎌倉街道探索の旅〈1〉上道・山ノ道編

旧鎌倉街道探索の旅〈1〉上道・山ノ道編

 
旧鎌倉街道探索の旅〈2〉中道・下道編

旧鎌倉街道探索の旅〈2〉中道・下道編

 

 

今回知ることが出来て、「こんな身近にかまくらみちが通っていたのか!」というところが沢山あると分かりました。そこが何の変哲もない細い小路だったり住宅地内だったりで思いもよらず、その上、想像以上に道幅が狭かったことに驚き、現存している場所の少ないことも知ることが出来ました。

『ローマ街道』(その中の『アッピア街道』くらいしか名前は知らないのですが)や『インカ街道』など有名な街道がありますが、それらもどれだけ変貌しているのか、していないのか…などにも興味を覚えました。(例えば『サンティアゴ・デ・コンポステーラ』などの巡礼路なども、上記同様の街道として良いのでしょうか?)

 

 

さて、話は戻って…

軽勘平のルートは鎌倉街道上道経由ではなく、中道経由で東海道へ…とすれば、合点が行きます。すると、現在のJR東戸塚戸塚駅間で東海道に合流となるので、先の碑がある場所は問題なく通過します。もしくは、途中で鎌倉街道の主要道から逸れて東海道に合流という可能性もあるのでしょうか。

長年不思議に思っていたのにロクに考えもせず、調べもせずでしたが、今回おそらくそうであろうという答えが見つかってスッキリしました。

 

…と納得してしまうのはまだ早かった!

 

私は戸塚の呪縛?で、何故ここを通るのかではなく、ここを通るには…と考えてしまっていましたが、鎌倉から京都へ逃げようというならば、先を急いでそのまま浜伝いに茅ヶ崎方面へ行った方が早いのです。

そこは、(わざわざ遠回りさせて)暗にお軽勘平は鎌倉からではなく、江戸からやって来たのだということを含めているとか、舞台背景の効果(茅ケ崎の南湖の左富士も綺麗で良いと思うけれど、平坦な浜伝いよりは、箱根に次ぐ難所で知られた戸塚の大坂上の方が二人の困難を盛り上げる効果大だし、山深い戸塚の方が寂寥感も増す…とか?)なども考え合わせているのだろう…という、以下のページの考察!(゚д゚)!

戸塚と歌舞伎・道行旅路の花聟1|戸塚宿を行く|☆戸塚パルソ通信☆

 

 

談ながら、日本におけるハムの歴史の中では欠かせないだろう『鎌倉ハム』。誕生の地(大元の創業地)は現在の鎌倉市内ではなく、当時鎌倉郡だった横浜市戸塚区内(柏尾町)なのです。

古事記の昔から鎌倉は広い地域で、明治11年現在の鎌倉郡は現在の鎌倉市全域、横浜市西部・南部、藤沢市の一部なども含まれていました。

もし、鎌倉ハムではなく、戸塚ハムや柏尾ハムだったら…などと考えてしまったり。

 

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横浜市戸塚のデザインマンホールには、東海道の提灯と箱根駅伝の走者

 

戸塚と言えば、東海道の宿場町。そして箱根駅伝の戸塚中継所や毎年ドラマが起こる権太坂も区内です。

そしてかつて『開かずの踏切』と呼ばれたJR東海道線横須賀線旧東海道と交差する戸塚駅隣の踏切で、吉田茂首相が大磯の別荘への行き来の際に長時間待たされることに嫌気がさして、踏切がないバイパス道路(通称『ワンマン道路』)を作らせた…という逸話もあります。このワンマン道路の終点も、先の大坂上でした。その『開かずの踏切』も立体交差のトンネルが出来たため、2015年春に姿を消しました。

 

 

…と、またまたお話がコロコロ転がってしまひました。m(_ _)m

いつもいつも頭の中はとっ散らかっていて、おばちゃんの話はあっちへ行ったりこっちへ戻ったりで、明確な着地点もないという。(;^ω^)💦 

 

平成の御代が始まった頃は、まだこれでももう少しマシだった…と思いたいのですが、三十年の月日は無情で、ますます脈絡がなくなってしまって…。

思い返せば、ギリ昭和の頃からパソコン通信をやっていましたが、そこでの文章もシッチャカメッチャカだったかも。皆さんごめんなさい…。

 

 

成最後の日

平成時代は30年113日間のようです。

昭和から平成に変わったあの日はお天気もどんよりと寒い日で、どこも自粛モードだったために、余計に暗く辛く感じました。

平成から令和の改元は祝賀ムードで明るいのは良いのですが、テレビを見ていると少々弾け過ぎのような…平和ということなのでしょう。

 

さてさて、元号が改まっても私が変わろう筈もなく…

沢山の思い出と想いが詰まって…良いこと・楽しいことばかりではなかったけれど、平成にありがとう。

そして、令和の時代もこんな調子ですが、宜しくお付き合い下さいまし。m(_ _)m