猫のつぶやき(=ΦωΦ=)

この前、空を見上げたのはいつですか?

オーロラの空、そしてヨックモック/20190331

一連の記事からの続き…

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ヨックモックのクッキーラングドシャ クリスマス2018 特別缶

ガールと、こちらのラングドシャのセットのクリスマス特別缶を買い求め、シガールについては『オーロラの空、つれづれ 1/20190329 - 猫のつぶやき(=ΦωΦ=)』で書きましたが、ラングドシャはミルクチョコレートとホワイトチョコレートの2種類入り。
久しぶりにヨックモックのお菓子を口にして相変わらず美味しかった!のですが、結構甘かったのねぇ…と思ったのは、歳のせい?( ;∀;)

 


ックモックの洋菓子。子どもの頃からご進物や手土産などで頂いて、洗練された異国情緒の風をもたらしてくれました。まだバターたっぷりのラングドシャタイプのお菓子は珍しく、そのはかないほどの食感と美味しさに魅了されましたが、高級菓子でしたから一度に何枚も食べさせてはもらえず、大きくなったら『大人買い』するんだ!と思ったものです。(;^ω^)

記憶の最初にある缶の意匠はターコイズブルーにゴールドのアラベスク文様の物のように思いますが、その一つの大きな缶を母が長らくお裁縫箱にしていました。一番思い出が多いのは白地に木蓮の花を抽象化したようなネイビーの模様が入った物でしょうか。その缶たちは私も子どもの頃からお裁縫箱にしたり、ボタンやお気に入りのリボン、ビーズなどのこまごました物、缶の大きさに応じてインク瓶や絵の具やらコレクションのポストカードなどを入れたりして、缶が増えるたびに大切な物も増えていくという、身近に置いておくものでした。その昔、連れ合いの家を訪れた時に、部屋に愛用のペン、製図や絵の道具を入れてあるヨックモック缶を見つけて、同じだなぁ…と思ったのでした。

余談ながら、サイズの揃った丈夫な缶や箱類は、今のように100均などないので簡単には揃えられませんでしたから、日曜大工で板から作ったり、頂いたお菓子の缶を使ったり、紙箱にも千代紙や布を貼ったりして揃えては大切に使っていました。今よりもずっと手仕事・手作りらしい品が溢れていた時代…垢抜けてお洒落とは言えなかったかも知れませんが、それもまた温もりがあって良いものでした。離れて暮らす祖父母と大叔母、そして母…手を動かすのが大好きな人達が作ったあれこれが日常生活のそこここにあって、それらを見たり使う度に作った人やみんなのことを思い出したり、どんな風に作ってくれたかに想いを巡らす…というのは、100均で買ってきたプラケースなどにはないものです。


店の名前の元になったスウェーデンのヨックモックは北緯66°ほどにある小さな町で、北極圏に入るかどうかのギリギリに位置しています。少々堅い内容ですが、北欧は北米側に比べて地磁気緯度が低くなり、ヨックモックは地磁気緯度では若干低い64°Nくらいになるでしょうか。統計的にオーロラ出現率が最も高くなるのはもう少し緯度が高い地になります。それでもオーロラが見えやすい場所に違いありません。
冬には全てが真っ白に覆われて、町中から少し出て雪原に寝そべれば、光(オーロラ)が夜空に翻ったり降り注ぐのが見られる…2018年クリスマス特別缶は、まさにその様子が描かれた2つの缶だったのです。

 

☆彡

 

分の吐く微かな息の音以外は聞こえない静寂の中…とは言え、私が『里帰り』と称しているアラスカでのオーロラ撮影も、光害はオーロラの敵なので街からは離れますが、それでも人里遠く離れたウィルダネスの真っただ中ではないので、ムース(ヘラジカ)やフクロウの鳴き声、犬や狼の遠吠え、風の音、木々が揺れる音、時には遠いアラスカ鉄道の汽笛や頭上を往く空軍機の飛行する音(フェアバンクスは基地の街でもあります)など…ちょっと怖かったり洒落たBGMなども加わったりもしますが、凍り付いて落ちて来そうな星の許で、いつやって来るとも知れない光(オーロラ)を待ち、自分の内なるものと対峙・対話する時間は、私にとってかけがえのないものです。

 

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2001年3月 オーロラを待っている間に…

 
残念なことに、まだヨックモックはおろかスウェーデンも訪れたことはありませんが…

フィンランドを訪れたのは20年以上前の9月のこと。ヘルシンキ近辺と北極圏を訪れた12日間でした。その時、北極圏の小さな村に日本人は私一人…。
その時期のラップランド(Lapland=フィンランド語ではラッピ Lappi)では、ルスカ(Ruska)と呼ばれる紅葉(厳密には、森は黄金に染まる『黄葉』が主)とレヴォントゥリ(Revontuli=「キツネの火」の意味)と呼ばれるオーロラの両方が楽しめるチャンスがあって、それを狙って出かけました。今では『夏のオーロラ』として旅行サイトやパンフレットでも多く見ますが、当時はまだオーロラ・シーズンは冬から春先とされていて、ツアーが組まれていたのもその間だけでしたから、日本人的には季節外れだったのです。冬には日本人スタッフが常駐する高級ホテルにも、この時期にはどなたもいらっしゃいませんでした。
(私が滞在したのはラッピでもヘルシンキでももっとリーズナブルで、オーロラ撮影で夜更かししても大丈夫なように&地元の物を沢山楽しみたくて-もちろんジモティ御用達レストランにも行きました!が、一人だと色々頼めないのが残念!-、自炊が出来るキチネットが付いた宿でした。)

9月上旬には夜はまだ完全には暗くなりませんし、それ以降でも中旬まではまだ暗い夜は短いですが、一般的には程良い長さか、少し短いと感じるくらいではないでしょうか。天文ファンやオーロラ命!ではない方々には、連日6時間以上もずっと空を見上げているのは辛かったり飽きてしまう方が多いと思いますし、多くのツアーも観望時間はそんなに長い設定ではないものが主です。冬の極夜モードの時期になったらオーロラ・チャンスの時間はもっと長くなりますが、寒い時期に外に居続けるのは(大抵は暖を取りながら、出たり入ったりの方が多いと思いますが)、根気と体力勝負になります。

 

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1997.9 ナナカマド フィンランド北極圏の小さな村で

 
在した村は、他にはロシアからの人が少しと大勢のドイツ人で占拠されていて、彼らは昼間は森を歩き、夜な夜な大量のビールを飲み続け(宿のレストラン&バーでは私の好きな銘柄のビールは彼らに飲み干されてしまって、スーパーの在庫も枯渇!2晩目からは2番目に好きなのしか呑めませんでした!!( ;∀;))、若者はライヴ演奏を楽しみ、大きな声で歌って踊り明かしていました。

9月下旬から雨が増えると聞いていたのにこの年は前倒しになったようで、お天気が芳しくない日が多かった中、運良くオーロラにも会えました。けれども、ネイチャーガイドさん(※)から「森には一人で入らないように!」とキツめに言われていたために、宿からは余り離れることが出来ず、あれほどの喧噪の中でオーロラを眺めたのはあの時だけかも。そして、私の他には外には居なかったのに、オーロラ爆発(ブレイクアップ)の時にはワラワラと人が出て来て、みんな奇声を上げていました。( ̄▽ ̄)
誰か空の様子を監視していた?宿の人がみんなに教えてあげたのか?謎…。

※現地では「Fell Guide」と呼ばれていました。最初"Fell"と聞いてもピンと来なくて(間違ってもHell Guideではないと思ったのですが、聴き間違いをすると恐ろしい目に!?(;'∀'))、Fellはスコットランドなどで使われるイギリス英語(一括りには出来ないと思いつつも、こう表記させて頂きます)のようです。
英語…本当に苦手で、その上、日常ではアメリカ英語に接することがほとんどで、イギリス英語は余り馴染みがないせいもあるかと思うのですが、「高地の草原や荒野、(固有名詞として)丘や山を意味する」らしく、形容詞としては「激しい、恐ろしい、残忍な、致命的な、有害な」などの意味を持つそうな。(あら?Hellと近いニュアンスもありますよ!?)スコットランドの荒れた丘をイメージすると良いのでしょうか?氷河期の名残りを残す北欧の自然も似通っていそうですが、いずれにしても映画や旅番組や自然紀行などの映像でしか知らないので、本当にイメージでしかないです。
なお、Fell Guideの仕事はアメリカで言うところのNature Guide同様のように見受けられたので、そのように表記しました。

 

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1997.9 フィルムのコンパクトカメラで写したオーロラ@フィンランド北極圏
レンズが暗いため、露出が長くてのっぺりオーロラ


にして思えば、当時は北欧ブームに本格的に火が付く前で、日本ではオーロラには季節外れとされていた時期にフィンランド北極圏を一人で旅する女性はまだ多くはなかったようで、「こいつ一人で何しに来たんだ?まさか厄介なことに…Σ(゚□゚;)」と勘違いされていたのかも知れないですね。ジッサイ ソウイウ "ジケン" アルノデス…ゴニョゴニョ…(;・∀・)

夕飯の時に先のFell Guide氏が声をかけてきて、私がずっとオーロラの写真を撮っていることを話したら、付近の自然のレクチャーを少ししてくれて、翌日から挨拶を交わすようになりました。一緒に呑んで…というかビールを奢らされた上に、最初はネイチャーガイドらしく色々教えてくれていたのに、その後は一方的にあれこれ愚痴を聞かされて…他の人はツアーかグループ旅行の方ばかりだし、一人の私はいいカモだと思われた可能性も十分あります。英語もフィンランド語も一番通じない相手だったのに。(;'∀')

ただ、小さな村に日本人(アジアンとしても…)は一人という状況だったので、どこへ行っても「あんた、今日は山頂のレストランへ行っただろ?」などと声をかけられて、一人旅でしたから話せて嬉しい反面、監視されているような気分にちょっぴりなりましたっけ。「日本人だから目立つ」のと「グループ旅行ばかりの中の女一人」だから、やはり何か気がかりだったのかも…そうだ!目立つ色のアウターを着ていたせいもあるかも知れません。(;^ω^)

素敵な手編み製品のお店のおばあさんには編み込み模様の意味を教えていただいたりもしましたが、第二次大戦時にドイツに苦しめられた話も聞かされて(ラッピも空襲を受けた)、日露戦争の件から親日派が多いと言われるフィンランドですが、複雑な気持ちに。その頃にはもう日本からのツアー客も多く訪れていたので、折り鶴が大好きなおばあさんでした。
村の郵便局にも足繁く通ったけれど、日本でもヘルシンキでも問題なく使えるVISAカードが(日本の郵便局はどうしてクレジット支払いが出来ないのでしょう?)、何故かラッピではそのままでは使えなくて、初日はキャッシュかT/Cで支払い、遠く離れたセンターまで何度も電話連絡して、カードが使えるようになるまでに随分時間がかかったり…。(゚д゚) 素敵な郵便局員の女性と何度も色々お話出来て楽しかったですが、日本よりもカード社会だと聞いていたフィンランドだったのに、クレジットカードにも色々あることを知った出来事でした。今は当時よりもずっとキャッシュレス化が進んでいるので、世界中で問題なく使えるのでしょうか?
その村も随分様子が変わって規模も大きくなったので、様相が変わっていることでしょう。

どんどん話が逸れていきますが…

その旅はオーロラが主目的ではなかったし、ご縁があってフィンランドの旅行会社へ直接手配したものでしたが(インターネットなどまだなくて、FAXとパソコン通信の電子メイル-どちらも海外向けには別料金が必要で-が使えて助かった!という時代)、何故かその時の北極圏内はエアもホテルも満杯で第一希望の地には行けず、フィンランド北極圏内を何度も探して頂いて、なんとか取れたのがこの村でした。短期間に無理なお願いばかりして担当さんを酷使してしまい、なんとその方は全ての手配が終わったら寝込んでしまわれたのです!時差は関係なかった…と思いたいですが、フィンランドの働き方では到底考えられない状況だったのでしょう。本当に申し訳ないのと有難いのとで、ヘルシンキ到着後にお土産を持ってお詫びに伺ったのでした。「もう日本人相手の仕事なんて二度としない!」と思わずにおられたら良いのですが、今はどうしておられるでしょうか。

…って、いかにも”語学堪能な風”に読めてしまうでしょうか。先に書いたように全くその逆!でかなり悲惨…本当に困るのです。よくもまぁこんなレヴェルで海外一人旅なんぞに出かけるもんだと自分でも思います。あああ…恥ずかしい。そして、現地の人ともっと沢山&突っ込んだお話をしたいのに、それが出来ないもどかしさったらありません!( ;∀;)
今ならば、翻訳ソフトの力を借りることも出来るのかも知れませんね。
大きな致命的トラブルに見舞われないだけで、ラッキーとしか言いようがありません。気を付けなくては!!(小さいのは数えきれないし、結構大きめなのもあったけれど、致命的なのは文字通りマズい訳で…このフィンランド一人旅では、ヘルシンキから帰国するその朝に、ちょっと恐ろしい目に遭ってしまいました!Σ(゚□゚;))

 
☆彡


て、ようやくお話はヨックモックに戻って。(;^ω^)
かなり前ですが、日本のお菓子のヨックモック(YOKU MOKU)の確か社長さんが、スウェーデンのヨックモック(Jokkmokk)の町まで自社製品を持参して感謝を伝えに行く…という番組がありました。(番組名などはすっかり失念)
お菓子のヨックモックとスウェーデンのヨックモックとの結びつきはどういうものなのかとずっと思っていたのですが、「Jokkmokkは森と湖の美しい自然に囲まれた地だけれど、冬の寒さが厳しい場所。しかしそれとは相反して、家庭は暖かさに包まれている。自社の作る洋菓子も、手作りの暖かさや真心を大切にしようということで、ヨックモックと名付けた」(公式サイト参照)と、その番組で知りました。

ヨックモックの基になる会社の開業は1942年、株式会社ヨックモックとなったのは1969年のことだそう。日本から観光旅行で自由に海外へ行けるようになったのは1964年のことで(持ち出し額の制限も厳しかったと漏れ聞いています)、実際にヨックモックの町を訪れて名付けたのではなく、写真や映像などからの情報やインスピレーションだったのかも知れません。上記の番組の中で、その点に触れられていたかどうかの記憶はありませんけれども。

 


ックモック。
この名を聞くと、亡き親友のことが思い出されて…。箸が転んでも笑っちゃうという年頃にヨックモックの洋菓子をお供に話に花を咲かせた思い出もありますし、北欧の言葉や文学を学んでいた彼女は研修旅行でスウェーデンを訪れて、ヨックモックにも立ち寄りました。忙しい中、ヨックモックも含むスウェーデン各地から絵ハガキを沢山送ってくれたこともあり(当時の私たちは本当に『手紙魔』と言える状態だったのです)、どうしても彼女と結びついてしまいます。

彼女のことを思い出しながら、ヨックモックのお菓子をいただきました。
今年は十三回忌…。